デザインとは

少しはデザイナーっぽい話をしないと正にただの感想文になってしまいそうなので少し自分に浸ってみる事にする。
デザインの究極とは想像したものを映像、音、文等の媒体に写し出す事だと俺は思う。
それは時に歪んで伝わったり自分の想像もしなかった事態になったりする。

かの漫画の神様・手塚治虫氏はアトムの事でとても不本意だと仰っていた。
技術描写などが持て囃されその本質を理解されないままに絶賛されるのは不本意だと。
手塚氏が描きたかったのは人種差別などの問題をロボットと人間の隔絶に置き換え人間の本性に切り込む漫画なのだそうだ。
その為にアトムは不幸な境遇であり、常に自身の存在への疑問と人間達の差別の目に晒されている。
つまり、未来的な描写など実はどうでもいいのであってアトムの本質は今日の評価と全く別の場所にあった事になる。
手塚氏は正に神様であるが、受け取り手によってこのアトムという作品のデザインは全くの失敗に終わってしまっている事になる。

例えば青年が国を裏切った父親を正に殺そうとしている構図の絵画があったとする。
この絵の解釈をどう思われるか?戦争時であるなら、自ら国に対しての忠誠心を見せ肉親でも国の為には処刑する見事な青年の図として皆に歓迎されるかもしれない。
しかし実は作者は、戦争と云うモノの理不尽さ、国に強制された青年の悲哀、人の意思の前に国の意志を出さねばならない国と言う物への批判。
これらを描きたかったのであって決して戦争賛歌の絵を描きたかった訳ではない。
これこそがデザインと言うカテゴリにおける曲解の恐ろしさだと思う。
デザインした本人の意志とは関係無く作品が一人歩きし、全く意図しない賞賛、批判を浴びる事になる。
だからと言って大衆に迎合し、大多数に媚びる作品を作ったところで駄作にしかならない。

デザインと言う創造の分野において究極は自己完結であると思っているが、それでもその自分の内部における作品への意図が理解されないのは悲しい事である。
ナポレオンが政府を倒した事に感動し「英雄」を作曲したベートーヴェン、しかしその後ナポレオンは自らが皇帝となり国を支配する、落胆したベートーヴェンは英雄のタイトルを「かつての英雄の思い出」としてしまう。
些か赴きの違う話ではあるが、このような悲しい出来事は出来れば起きて欲しく無いモノである。
いまいち分からないデザインへの考え方を締めとして本日は終了する。
尚、余り深く考えていない為に読み辛い点が多々或る事をお詫びします。